菊地凛子、実家は秦野の母子家庭!ミステリアス女優の過去と現在

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秦野の母子家庭育ち

菊地 凛子(きくち りんこ)さんは1981年1月6日、神奈川県秦野市の出身です。身長は169cm、血液型はO型との情報です。

 

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映画好き父の急逝

お父様は彼女が小学6年生のときに亡くなられました。とても、映画好きのお父様だったようです。菊地凛子さんは母子家庭で育ちました。ご兄妹はいないようです。

母子で「SPUR」愛読

陽気で明るいお母様と菊地凛子さんの仲は良好で、菊地凛子さんが幼い頃から、お母様の愛読書の雑誌「SPUR」を一緒に読んでいたそうです。のちに、菊地凛子さんはこの「SPUR」の表紙を務めることとなります。

2015年に結婚した旦那様の染谷将太さんは、お子さんを連れて秦野のお母様のところによく訪れるそうです。お母様もお孫様たちと公園で遊んだりするのはとても楽しいひと時なんだそうです。

結婚と恋愛

染谷将太さんと結婚

菊地凛子さんと染谷将太さんは、2015年に結婚しています。、1月1日に入籍を発表する“元日婚”で大きな話題を呼びました。菊地凛子さんは、1981年1月6日生まれで、染谷将太さんは1992年9月3日生まれのため、一回りほど、菊地凛子さんが年上になります。

染谷将太さんは、菊地凛子さんと出会ったとき、「家族になれるな」と直感で思ったと、「しゃべくり007」という番組内で語っていました。俳優というのは、直感が研ぎ澄まされているのですね。

 

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オタクな夫、染谷将太さん

菊地凛子さんの夫染谷将太さんは、東京都江戸川区出身で、中学生の時から映画監督の園子温さんを探して新宿ゴールデン街を出入りしていたそうです。園子温さんは、満島ひかりさん、吉高由里子さんを発掘したことでも有名です。

結局、そのときは監督を見つけることはできなかったそうですが、数年後の2012年に、園子温さん監督の「ヒミズ」に、染谷将太さんは主演することになります。この作品で染谷将太さんは二階堂ふみさんと共に、第68回ヴェネツィア国際映画賞新人賞のマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞しています。

現在は映像作家として2足の草鞋を履いている染谷将太さんは、芸(表現)に対する探究心がものすごく、読書家で勉強家だそうです。かつて恋人のスパイク・ジョーンズ氏をあげて、「オタクな男性が好き」と評した菊地凛子さんですが、好きなタイプはぶれないといえます。

子供は何人いる?

2016年には第一子を出産しました。その際、染谷将太さんは公式サイトにて「母子共に健康です。新たな家族と共に切磋琢磨していきたいと思っております。これからも温かく見守って頂けると幸いです」とコメントしました。

2019年3月31日には、再び染谷将太さんが公式サイトに、第2子の誕生を発表しました。「家族が増え、新たな刺激を糧にまた精進して参ります。これからも変わらず温かく見守って頂けたら幸いです」とコメントしました。

元彼はスパイク・ジョーンズ氏

アメリカの映画監督、プロデューサー、兼俳優のスパイク・ジョーンズ氏だと言われています。2010年に、菊地凛子さんとのニューヨーク同棲が報じられました。

出典:https://ciatr.jp/topics/309334

なれそめは、2009年12月、スパイク・ジョーンズ監督が映画 「かいじゅうたちのいるところ」のキャンペーンで来日したところ、関係者を通じて知り合い、意気投合したそうです。

映画「ノルウェイの森」が出品されている第67回ヴェネチア国際映画祭に参加中の菊地凛子さんにスパイク・ジョーンズ監督も同伴して、報道陣の前で手をつないで現れるなど、堂々とした交際ぶりが話題になりました。この日も2人は一緒にニューヨークに帰りました。

この交際は、約1年ほどで、互いの多忙を理由に破局したようです。菊地凛子さんは実質、ニューヨークと日本の往復生活であったため、物理的な問題も大きかったのかもしれません。

ちなみにスパイク・ジョーンズ監督の元妻は、ソフィア・コッポラ監督で、ソフィア・コッポラ監督の元夫は、クエンティン・タランティーノ監督だそうです。菊地凛子さん、すごい人たちと一筆書きで繋がってしまっています。

 

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菊地凛子さんの代表作

菊地凛子さんは1996年、15歳の時にラフォーレ原宿でスカウトされました。当初はモデルの仕事が中心でした。

1999年には「菊地百合子」名義で新藤兼人監督の「生きたい」で映画デビューします。2001年に主演した熊切和嘉監督の「空の穴」でロッテルダム映画祭などで脚光を浴びます。2004年に主演した、石井克人監督の「茶の味」はカンヌ映画祭のオープニング作品となりました。

2004年5月、「菊地凛子」に改名します。スタイリストの北村道子さんに言われた、「百合子って昭和の女優みたいじゃない?」という言葉がきっかけでした。その後はフリーランスとして、国内外のオーディションに参加する姿が世界的に高く評価を得ています。

転機となった作品「バベル」

菊地凛子さんは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の2006年作品「バベル」 で、実に有名になりました。メキシコ・モロッコ・東京、世界3ヶ国が舞台となっており、4ヶ国語で作られ、主演はブラッド・ピットとケイト・ブランシェットです。

菊地凛子さんは、耳の聞こえない少女、綿谷千恵子を演じて、アカデミー助演女優賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー新人女優賞、ゴッサム賞新人女優賞、などに軒並みノミネートされました。

アカデミー賞への日本人のノミネートは、1958年以来、約50年ぶりとなりました。ちなみに言葉が話せない役でノミネートされたのは、1929年の第1回アカデミー賞以来、菊地凛子さんが5人目の女優にあたるそうです。

菊地凛子さんは綿谷千恵子を演じるにあたり、実際に聾学校へ行き、聾者の方々の悩みや希望に触れ、最終的には、「手話も日本語も同じ言語には違いないのじゃないか?」というところまで役に落とし込んだそうです。

但し撮影は、菊地凛子さんの手話を誰かが日本語に訳し、それをまた誰かが英語に訳し、最終的に監督に伝わる、という大変煩雑なものだったそうです。

菊地凛子さんは、この作品について、「見終わったあとに、誰かを愛することを恐れなくなる、誰かを素直に愛したくなるような映画になっています。」と語っています。

「ノルウェイの森」で突撃オーディション

2010年に菊地凛子さんはトラン・アン・ユン監督の映画「ノルウェイの森」に、松山ケンイチさんが演じる主人公ワタナベの恋人役で出演しています。冒頭に亡くなりますが、一種のヒロインでもあります。

菊地凛子さんは直子役オーディションへの参加をトラン・アン・ユン監督に直談判していました。あまり乗り気ではなかったトラン・アン・ユン監督に菊地凛子さんは自分のオーディション用演技ビデオを送ります。すると、トラン・アン・ユン監督から連絡がきました。

打合せ場所のホテルで菊地凛子さんはトラン・アン・ユン監督に、「どうやって役を作り込んだの?」等質問攻めにされます。

業をにやした菊地凛子さんは、「役をくれるの? くれないの?」とトラン・アン・ユン監督に詰め寄りました。すると、トラン・アン・ユン監督はあっさり、「あげるよ」といってくれ、菊地凛子さんは見事ヒロインの座を射止めました。

映画「ノルウェイの森」は、原作者の村上春樹さんから映画化の許可を得るまで4年かかったそうです。また、劇中において「ノルウェーの森」の原曲利用が、1年以上の交渉を経て英EMIより許諾されましたが、これは極めて異例なことだといわれています。作品は原作者の村上春樹さんゆかりの、兵庫県や早稲田大学で撮影されました。

まとめ

菊地凛子さんはあれだけ世界で高い評価を受けていますが、自分に自信を持った事は一度もないそうです。ただ、役を自分の中で理解し、どう表現するのか、そのアプローチに関しては自身があるそうです。

海外や音楽業界でのマルチな活躍

映画『バベル』の以来、国外の映画にも多く出演しています。Rinbjö(リンビョウ)名義で、音楽活動も行っています。マルチな菊地凛子さんが世界を舞台にどのような活躍をしていくのか、今後とも注目していきます!

 

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