長澤まさみ、彼氏より年収高かった?芸能デビューきっかけは中山雅史

Pocket

デビューのきっかけは中山雅史さん

長澤まさみさんの芸能界デビューのきっかけを作ったのは、長澤まさみさんの父が監督を務めていたジュビロ磐田の中山雅史さんだったそうです。中山雅史さんの知人の紹介で「第五回東宝シンデレラオーディション」を受け、長澤まさみさんは35,153人の中から当時、史上最年少の12歳(小学6年生)でグランプリに選ばれました。

中学校二年生の時に仕事が忙しくなってきたために、上京して中野区立第九中学校(現・中野区立中野中学校)へ進学しました。当初は女優・大塚千弘さんと2人暮らしだったというエピソードがあります。

「世界の中心で愛をさけぶ」でブレイク

そして2004年、長澤まさみさん17歳の高校2年生の時、「世界の中心で愛をさけぶ」ヒロイン亜紀役で出演しブレイクします。ヒロイン亜紀は、白血病治療の副作用により脱毛する役で、長澤まさみさんは自ら志願してスキンヘッドにしました。すごいプロ意識ですね。

「世界の中心で愛をさけぶ」は興行収入85億円の大ヒット作となり、「第28回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞」を獲得しました。

年収は概算5億?

長澤まさみさんの税引き前収入は、映画、ドラマ、CMなどから単純に概算して5億ほどといわれております。

内訳は

長澤まさみさんクラスですと、1本の映画の出演料が数千万から億に達するというから驚きです。加えてドラマについては、1クールMax5000万ほどだそうです。CMでもMax5000万程度との事ですから、単純に尺を考えるとやはりCMはタレントにとってオイシイといえるのではないでしょうか。

またアマプラ、ネットフリックスなどのサブスク的メディアでは、地デジドラマや映画の約3倍の報酬が支払われるそうです。最近ネットフリックスなどに活動の軸を移すタレントさんが多いのもうなずけますね。

その他には、芝居は1舞台が5万円、雑誌の表紙が一回30万超、バラエティ出演が1回100万前後(人による)、などの収入があります。

手取りは推定40%

そしてここからが重要ですが、一般的な芸能事務所とタレントのギャラ按分は、6対4とされております。長澤まさみさんは自身の取り分約2億円の中から、税金その他を支払うこととなりそうです。日本では4000万以上の収入に45%所得税が課されることになっております。しかし、手取りは単純計算で億超えになることになりますから、庶民からするとおそろしいですね。

元カレより高収入!

長澤まさみさんと交際の噂があった元彼たちも、「似たもの同士が集まる」というのかお金持ちが多いようです。

まずぶっちぎりの高収入なのが、印税などもはいってくる野田洋次郎さんが推定5億。続いて国民的芸能人の二宮和也さんが推定4億。売れっ子俳優の高橋一生さん、吉沢亮さんが推定2億。出演作品を厳選するこだわり俳優山田孝之さんが推定1億。そして現在控えめに活動している伊勢谷友介さんはなんと、月額550円のファンクラブ会員が3万円を超え推定1億。

こうしてみると長澤まさみさんは、元彼たちのほとんどより年収が高いことがわかります。

静岡県磐田市出身

長澤まさみさんは、お父様お母様お兄様の4人家族です。長澤まさみさんのお母様の本名は公表されておらず、今は一般人で、元はモデルだと言われています。長澤まさみさんはお母様似だそうです。お母様は身長は長澤まさみさんと同じ168cmですが、なんと股下はお母様の方が長いそうです!

お兄様の名前は長澤竜太さんで、身長が190cmもあり、超がつくイケメンだといわれています。地元の方の証言です。

父親はサッカー名監督

長澤まさみさんのお父様は長澤 和明(ながさわ かずあき)さんで、 1958年2月4日静岡県清水清水区出身の元サッカー選手、指導者、解説者です。日本代表経験を持ち、ジュビロ磐田の初代監督を務めた事でも高名です。

長澤和明さんは、清水東高校のサッカー部のMFとして、1973年には、高校総体3位、1974年には、高校選手権準優勝の成績を収めました。

1978年から1985年まで、サッカー日本代表に選出され、9試合出場しています(木村和司さんと時期がかぶったためか、少なめです)。1980年にヤマハ発動機のサッカー部に入部し、1982年ハンス・オフトがヤマハのコーチとして初来日した時にはキャプテンを務めました。

その後、怪我をきっかけに30歳の若さで引退を遂げました。しかしここからが長澤 和明先生の真骨頂です。

選手としての引退後はヤマハのコーチを務めた後、1991年に監督に就任。在任中にチームが「ジュビロ磐田」に改称したため、長澤はヤマハ最後の監督と同時にジュビロの初代監督となりました。在任中、1992年の旧J1優勝、1993年のJリーグ昇格などの歴史を飾りました。

ジュビロ磐田を退任後の軌跡は、1995~1996年 Lリーグ 鈴与清水FCラブリーレディース監督、1997年 JFLの本田技研工業サッカー部監督、1999~2001年途中 ソニー仙台FC監督、2001年秋~ 常葉学園橘高校サッカー部監督、2008年1月~ 浜松大学サッカー部監督、2013年 グランセナ新潟FC監督、2014年 北越高校監督、2015~2017 清水東高校監督、となります。

2017年に清水東高校のヘッドコーチ退任後は、地元静岡県浜松市「浜松フットボールアカデミー(U10-U12)」、「ホワイトドラゴン(U13-U15)」で、小中学生向けに、総監督としてサッカーの指導をおこなっているそうです。「ホワイトドラゴン」は2019年に3部リーグに昇格するそうです。天晴。

ちなみに長澤和明さん、非常にアツい人柄らしく、ベンチ入り禁止処分中に、スタンドからトランシーバーでベンチにいるコーチに指示をだしているところを審判に注意されたり、スタンドから大声でベンチにいるコーチに指示を出してコーチがそのまま選手に伝えているところを審判に勘づかれて試合が中断したり、おおくの武勇伝があるそうです。

まとめ

サッカー嫌いを克服

長澤まさみさんは幼少のころはお父様への反発心からか、サッカー嫌いだったようなのです。しかし最近では、お父様が監督を務めるメンバー38人全員にお手製のミサンガを贈ったり、サッカーへの理解を示しているようです。これにはメンバーも大喜びしたそうです。

長澤まさみさんの今後にこれからも注目していきます!

 

Follow me!

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)